山中湖のおすすめ散歩<神社めぐり>
散策しながら山中湖の歴史を辿る地元目線の散歩みちご紹介

【神社めぐりコース】

山中湖村山中地区の神社をめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:約3Km 所要時間:1.5時間程
山中湖村山中地区の神社をめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:約3Km 所要時間:1.5時間程
山中湖村山中地区の神社をめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:約3Km 所要時間:1.5時間程
金刀比羅宮  ホテルマウント富士の入り口に建立されている「金刀比羅宮」は、讃岐の金刀比羅宮より分霊をし、湖の水上安全と豊漁を祈願しています。急な階段を登ると小さな祠が鎮座し、木々の間から湖畔と山中集落、富士の裾野が望め、富士山に一番近い湖が実感できます。 →地図


金刀比羅宮  ホテルマウント富士の入り口に建立されている「金刀比羅宮」は、讃岐の金刀比羅宮より分霊をし、湖の水上安全と豊漁を祈願しています。急な階段を登ると小さな祠が鎮座し、木々の間から湖畔と山中集落、富士の裾野が望め、富士山に一番近い湖が実感できます。 →地図


金刀比羅宮  ホテルマウント富士の入り口に建立されている「金刀比羅宮」は、讃岐の金刀比羅宮より分霊をし、湖の水上安全と豊漁を祈願しています。急な階段を登ると小さな祠が鎮座し、木々の間から湖畔と山中集落、富士の裾野が望め、富士山に一番近い湖が実感できます。 →地図


梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


白龍の松(左竜)  安産祭りに明神山奥宮から山中諏訪神社に向かって豊玉姫命が二頭の竜に導かれるという古事に由来。 平成19年度に白龍の松(右龍)が命名・整備されたのを受け、神社、山中区住民が協議を重ね、左龍に房和紙松を移植し左右一対としました。 →地図


白龍の松(左竜)  安産祭りに明神山奥宮から山中諏訪神社に向かって豊玉姫命が二頭の竜に導かれるという古事に由来。 平成19年度に白龍の松(右龍)が命名・整備されたのを受け、神社、山中区住民が協議を重ね、左龍に房和紙松を移植し左右一対としました。 →地図


白龍の松(左竜)  安産祭りに明神山奥宮から山中諏訪神社に向かって豊玉姫命が二頭の竜に導かれるという古事に由来。 平成19年度に白龍の松(右龍)が命名・整備されたのを受け、神社、山中区住民が協議を重ね、左龍に房和紙松を移植し左右一対としました。 →地図


山中諏訪神社  9月に行われる安産祭りは、安産・子宝を願って女性も神輿を担ぐ珍しいお祭りです。諏訪明神と称されるこの神社は、正式には同地の浅間神社の摂社にあたります。9月4.5.6日に行われる「安産祭り」には多くの婦人の参詣で賑わいます。
永禄8年(1565年)、武田信玄は富士山中宮の社檀造営のため、黒駒(笛吹市)の関銭のうち十貫文を寄進したとされています。
諏訪神社参道を湖畔に抜けると湖の対岸に明神山が望めます。明神山山頂には山中諏訪神社奥宮の祠があり、9月の例祭前に奥宮祭が執行されています。 →地図


山中諏訪神社  9月に行われる安産祭りは、安産・子宝を願って女性も神輿を担ぐ珍しいお祭りです。諏訪明神と称されるこの神社は、正式には同地の浅間神社の摂社にあたります。9月4.5.6日に行われる「安産祭り」には多くの婦人の参詣で賑わいます。
永禄8年(1565年)、武田信玄は富士山中宮の社檀造営のため、黒駒(笛吹市)の関銭のうち十貫文を寄進したとされています。
諏訪神社参道を湖畔に抜けると湖の対岸に明神山が望めます。明神山山頂には山中諏訪神社奥宮の祠があり、9月の例祭前に奥宮祭が執行されています。 →地図


山中諏訪神社  9月に行われる安産祭りは、安産・子宝を願って女性も神輿を担ぐ珍しいお祭りです。諏訪明神と称されるこの神社は、正式には同地の浅間神社の摂社にあたります。9月4.5.6日に行われる「安産祭り」には多くの婦人の参詣で賑わいます。
永禄8年(1565年)、武田信玄は富士山中宮の社檀造営のため、黒駒(笛吹市)の関銭のうち十貫文を寄進したとされています。
諏訪神社参道を湖畔に抜けると湖の対岸に明神山が望めます。明神山山頂には山中諏訪神社奥宮の祠があり、9月の例祭前に奥宮祭が執行されています。 →地図


山中浅間神社  平安時代の承平元年(西暦931)、郷民社殿を造営し、三柱の神(木花開耶姫命[コノハナノサクヤヒメノミコト]、天津彦々火瓊々杵尊[アマツヒコヒコホノニニギノミコト]、大山子祇命)を勧請して奉ったことが、山中浅間神社の始まりで、村上天皇の勅命で建立されたと伝えられる由緒正しい神社です。
江戸時代には本殿、雨屋、拝殿を再建し、石灯籠の建立しましたが、大正8年(1920)の火災により全社殿を焼失。同12年に再建され、その翌年には手水舎神興殿が新築されています。
昭和47年(1972)には社殿(50坪)が鉄筋コンクリート屋根銅板葺の荘厳な建物に改められ、建物新築後には手水舎神興殿も再建され、現在に至っています。 →地図


山中浅間神社  平安時代の承平元年(西暦931)、郷民社殿を造営し、三柱の神(木花開耶姫命[コノハナノサクヤヒメノミコト]、天津彦々火瓊々杵尊[アマツヒコヒコホノニニギノミコト]、大山子祇命)を勧請して奉ったことが、山中浅間神社の始まりで、村上天皇の勅命で建立されたと伝えられる由緒正しい神社です。
江戸時代には本殿、雨屋、拝殿を再建し、石灯籠の建立しましたが、大正8年(1920)の火災により全社殿を焼失。同12年に再建され、その翌年には手水舎神興殿が新築されています。
昭和47年(1972)には社殿(50坪)が鉄筋コンクリート屋根銅板葺の荘厳な建物に改められ、建物新築後には手水舎神興殿も再建され、現在に至っています。 →地図


山中浅間神社  平安時代の承平元年(西暦931)、郷民社殿を造営し、三柱の神(木花開耶姫命[コノハナノサクヤヒメノミコト]、天津彦々火瓊々杵尊[アマツヒコヒコホノニニギノミコト]、大山子祇命)を勧請して奉ったことが、山中浅間神社の始まりで、村上天皇の勅命で建立されたと伝えられる由緒正しい神社です。
江戸時代には本殿、雨屋、拝殿を再建し、石灯籠の建立しましたが、大正8年(1920)の火災により全社殿を焼失。同12年に再建され、その翌年には手水舎神興殿が新築されています。
昭和47年(1972)には社殿(50坪)が鉄筋コンクリート屋根銅板葺の荘厳な建物に改められ、建物新築後には手水舎神興殿も再建され、現在に至っています。 →地図


山中十一番観音堂  創建年代は不明で、遅くとも江戸時代中期には建てられていたといわれます。古文書によると「感忍寺(かんにんじ)」とも称していたとあります。
観音堂は、郡内三十三番観音礼所のうちの11番目。山中十一番観音堂には、「御佛(みほとけ)の舟には法(のり)の山中へ 参るこの身はうかぶなるらん」という御詠歌碑があります。
また、「諏訪神社の神様は、観音堂が嫌いだ」という話が昔から一般に知られていたため、安産祭りの神輿は観音堂の前をすばやく通過することになっているそうです。 →地図


山中十一番観音堂  創建年代は不明で、遅くとも江戸時代中期には建てられていたといわれます。古文書によると「感忍寺(かんにんじ)」とも称していたとあります。
観音堂は、郡内三十三番観音礼所のうちの11番目。山中十一番観音堂には、「御佛(みほとけ)の舟には法(のり)の山中へ 参るこの身はうかぶなるらん」という御詠歌碑があります。
また、「諏訪神社の神様は、観音堂が嫌いだ」という話が昔から一般に知られていたため、安産祭りの神輿は観音堂の前をすばやく通過することになっているそうです。 →地図


山中十一番観音堂  創建年代は不明で、遅くとも江戸時代中期には建てられていたといわれます。古文書によると「感忍寺(かんにんじ)」とも称していたとあります。
観音堂は、郡内三十三番観音礼所のうちの11番目。山中十一番観音堂には、「御佛(みほとけ)の舟には法(のり)の山中へ 参るこの身はうかぶなるらん」という御詠歌碑があります。
また、「諏訪神社の神様は、観音堂が嫌いだ」という話が昔から一般に知られていたため、安産祭りの神輿は観音堂の前をすばやく通過することになっているそうです。 →地図


九郎貴神社 富士山の宝永大噴火の際、溶岩流は山中湖湖岸から西300メートルのところ、現在の九郎貴神社まで流れてきたようです。その溶岩の端に後から九郎貴神社が建てられました。 →地図


九郎貴神社 富士山の宝永大噴火の際、溶岩流は山中湖湖岸から西300メートルのところ、現在の九郎貴神社まで流れてきたようです。その溶岩の端に後から九郎貴神社が建てられました。 →地図


九郎貴神社 富士山の宝永大噴火の際、溶岩流は山中湖湖岸から西300メートルのところ、現在の九郎貴神社まで流れてきたようです。その溶岩の端に後から九郎貴神社が建てられました。 →地図


御旅所 山中諏訪神社の安産祭りで担がれる神輿を休ませる宿泊所です。 →地図


御旅所 山中諏訪神社の安産祭りで担がれる神輿を休ませる宿泊所です。 →地図


御旅所 山中諏訪神社の安産祭りで担がれる神輿を休ませる宿泊所です。 →地図


山中湖のおすすめ散歩<道端めぐり>
散策しながら山中湖の歴史を辿る地元目線の散歩みちご紹介

【道端めぐりコース】

山中湖村山中地区の道端にある由緒ある史跡をめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:2.5Km 所要時間:1時間程
山中湖村山中地区の道端にある由緒ある史跡をめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:2.5Km 所要時間:1時間程
山中湖村山中地区の道端にある由緒ある史跡をめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:2.5Km 所要時間:1時間程
白龍の松(左竜)  安産祭りに明神山奥宮から山中諏訪神社に向かって豊玉姫命が二頭の竜に導かれるという古事に由来する。
平成19年度に白龍の松(右龍)が命名・整備されたのを受け、神社、山中区住民が協議を重ね、左龍に房和紙松を移植し左右一対としました。 →地図


白龍の松(左竜)  安産祭りに明神山奥宮から山中諏訪神社に向かって豊玉姫命が二頭の竜に導かれるという古事に由来する。
平成19年度に白龍の松(右龍)が命名・整備されたのを受け、神社、山中区住民が協議を重ね、左龍に房和紙松を移植し左右一対としました。 →地図


白龍の松(左竜)  安産祭りに明神山奥宮から山中諏訪神社に向かって豊玉姫命が二頭の竜に導かれるという古事に由来する。
平成19年度に白龍の松(右龍)が命名・整備されたのを受け、神社、山中区住民が協議を重ね、左龍に房和紙松を移植し左右一対としました。 →地図


鯉奉納碑  「鯉奉納」の碑は、現在の埼玉県寄居町を中心とする富士講のひとつ「丸正講」の人々が、享和元年(1801年)3月に山中湖を訪れ、鯉を放流した時に建てた記念碑であり、富士五湖に魚を放流した記録としては、最古の物とされています。
また、山中湖が富士山信仰に重要な役割を果たしていたことを知る貴重な資料として、平成12年山中湖村史跡文化財に指定されました。山中湖は富士山の清浄な伏流水の湧く湖として、往古より村人の生活に多大な恩恵を与え続けてきました。この湖に感謝の意を込め、いつまでも美しい湖を守っていくことを呼びかけるために鯉のモニュメントが建立されました。 →地図


鯉奉納碑  「鯉奉納」の碑は、現在の埼玉県寄居町を中心とする富士講のひとつ「丸正講」の人々が、享和元年(1801年)3月に山中湖を訪れ、鯉を放流した時に建てた記念碑であり、富士五湖に魚を放流した記録としては、最古の物とされています。
また、山中湖が富士山信仰に重要な役割を果たしていたことを知る貴重な資料として、平成12年山中湖村史跡文化財に指定されました。山中湖は富士山の清浄な伏流水の湧く湖として、往古より村人の生活に多大な恩恵を与え続けてきました。この湖に感謝の意を込め、いつまでも美しい湖を守っていくことを呼びかけるために鯉のモニュメントが建立されました。 →地図


鯉奉納碑  「鯉奉納」の碑は、現在の埼玉県寄居町を中心とする富士講のひとつ「丸正講」の人々が、享和元年(1801年)3月に山中湖を訪れ、鯉を放流した時に建てた記念碑であり、富士五湖に魚を放流した記録としては、最古の物とされています。
また、山中湖が富士山信仰に重要な役割を果たしていたことを知る貴重な資料として、平成12年山中湖村史跡文化財に指定されました。山中湖は富士山の清浄な伏流水の湧く湖として、往古より村人の生活に多大な恩恵を与え続けてきました。この湖に感謝の意を込め、いつまでも美しい湖を守っていくことを呼びかけるために鯉のモニュメントが建立されました。 →地図


袈裟がけの銀杏  袈裟がけの銀杏とは、日蓮聖人が1268年に山中本陣(坂本家)に泊まった折に袈裟を掛けたとされる銀杏の木です。村道拡張工事が行われた際にも日蓮聖人を偲んで残され、今に至っています。
木の幹周りは約3mあり、平野地区にある寿徳寺の銀杏ととともに、山中湖村の銀杏巨木として大事に守られています。 →地図


袈裟がけの銀杏  袈裟がけの銀杏とは、日蓮聖人が1268年に山中本陣(坂本家)に泊まった折に袈裟を掛けたとされる銀杏の木です。村道拡張工事が行われた際にも日蓮聖人を偲んで残され、今に至っています。
木の幹周りは約3mあり、平野地区にある寿徳寺の銀杏ととともに、山中湖村の銀杏巨木として大事に守られています。 →地図


袈裟がけの銀杏  袈裟がけの銀杏とは、日蓮聖人が1268年に山中本陣(坂本家)に泊まった折に袈裟を掛けたとされる銀杏の木です。村道拡張工事が行われた際にも日蓮聖人を偲んで残され、今に至っています。
木の幹周りは約3mあり、平野地区にある寿徳寺の銀杏ととともに、山中湖村の銀杏巨木として大事に守られています。 →地図


愛宕地蔵と双体道祖神  向かって左側にある一体のお地蔵様は火伏せの神、愛宕地蔵です。江戸時代の中期に京都の愛宕山の修験者により、愛宕地蔵信仰が全国に広められたときに、この愛宕地蔵も作られたと考えられていますが、正確な建立年代は不明です。 右側の男女一組の道祖神は、1760年(宝暦10年)の建立です。道祖神は村の守り神であり、子孫の繁栄をもたらす神として、また道を行き来する旅人を守る神として信仰されてきました。今は山中小学校の入り口にあって子供たちを見守ってくれています。 →地図


愛宕地蔵と双体道祖神  向かって左側にある一体のお地蔵様は火伏せの神、愛宕地蔵です。江戸時代の中期に京都の愛宕山の修験者により、愛宕地蔵信仰が全国に広められたときに、この愛宕地蔵も作られたと考えられていますが、正確な建立年代は不明です。 右側の男女一組の道祖神は、1760年(宝暦10年)の建立です。道祖神は村の守り神であり、子孫の繁栄をもたらす神として、また道を行き来する旅人を守る神として信仰されてきました。今は山中小学校の入り口にあって子供たちを見守ってくれています。 →地図


愛宕地蔵と双体道祖神  向かって左側にある一体のお地蔵様は火伏せの神、愛宕地蔵です。江戸時代の中期に京都の愛宕山の修験者により、愛宕地蔵信仰が全国に広められたときに、この愛宕地蔵も作られたと考えられていますが、正確な建立年代は不明です。 右側の男女一組の道祖神は、1760年(宝暦10年)の建立です。道祖神は村の守り神であり、子孫の繁栄をもたらす神として、また道を行き来する旅人を守る神として信仰されてきました。今は山中小学校の入り口にあって子供たちを見守ってくれています。 →地図


山中口留番所跡  甲斐、相模、駿河三州の境に立って、ガッチリ構えたのが山中の関所でした。昔、東海道から分かれて須走りを回り、左手に富士山を眺めながら籠坂の峠に出たのが、甲州と駿州を結ぶ鎌倉街道です。関所はこの籠坂の麓で、山中部落の中央に位置していました。左は雑木の茂みと溶岩で一歩も進めず、右手には山中湖が展開していたため、不審者は一人としてその姿を隠すことができない要衝だったのです。
山中の関所は東海道箱根の関に次いで厳しかったと伝えられ、あまりの厳しさに三国峠から平野、忍野村内野へと渡るものも多く、そのため平野にも関所が設けられたということです。
関所の建物は安政3年(1756)師走に村内の火事の延焼により焼失。翌年再建されたのですが、それまでの建物に比べるとずいぶん小規模になったようです。なお、再建後の建物は明治13年に下吉田に移築して現存しています。  →地図


山中口留番所跡  甲斐、相模、駿河三州の境に立って、ガッチリ構えたのが山中の関所でした。昔、東海道から分かれて須走りを回り、左手に富士山を眺めながら籠坂の峠に出たのが、甲州と駿州を結ぶ鎌倉街道です。関所はこの籠坂の麓で、山中部落の中央に位置していました。左は雑木の茂みと溶岩で一歩も進めず、右手には山中湖が展開していたため、不審者は一人としてその姿を隠すことができない要衝だったのです。
山中の関所は東海道箱根の関に次いで厳しかったと伝えられ、あまりの厳しさに三国峠から平野、忍野村内野へと渡るものも多く、そのため平野にも関所が設けられたということです。
関所の建物は安政3年(1756)師走に村内の火事の延焼により焼失。翌年再建されたのですが、それまでの建物に比べるとずいぶん小規模になったようです。なお、再建後の建物は明治13年に下吉田に移築して現存しています。  →地図


山中口留番所跡  甲斐、相模、駿河三州の境に立って、ガッチリ構えたのが山中の関所でした。昔、東海道から分かれて須走りを回り、左手に富士山を眺めながら籠坂の峠に出たのが、甲州と駿州を結ぶ鎌倉街道です。関所はこの籠坂の麓で、山中部落の中央に位置していました。左は雑木の茂みと溶岩で一歩も進めず、右手には山中湖が展開していたため、不審者は一人としてその姿を隠すことができない要衝だったのです。
山中の関所は東海道箱根の関に次いで厳しかったと伝えられ、あまりの厳しさに三国峠から平野、忍野村内野へと渡るものも多く、そのため平野にも関所が設けられたということです。
関所の建物は安政3年(1756)師走に村内の火事の延焼により焼失。翌年再建されたのですが、それまでの建物に比べるとずいぶん小規模になったようです。なお、再建後の建物は明治13年に下吉田に移築して現存しています。  →地図


馬頭観世音  馬の走る姿が浮き彫りにされた珍しい馬頭観音です。  →地図


馬頭観世音  馬の走る姿が浮き彫りにされた珍しい馬頭観音です。  →地図


馬頭観世音  馬の走る姿が浮き彫りにされた珍しい馬頭観音です。  →地図


白竜の松(右竜)  御神歌の一節『右龍がいにも左龍がいにも』は、「諏訪の宮」のご神体である豊玉姫命が、右龍と左龍の二頭の白龍に道を導かれて、あるいは龍を従えておいでになる、と解釈されています。湖畔にたたずむこの松は、東にある明神山の奥宮から豊玉姫命が白龍に導かれ、里宮へ来る道中に位置します。 誰が成形したわけでもないのに、この形を成しているのは不思議です。  →地図


白竜の松(右竜)  御神歌の一節『右龍がいにも左龍がいにも』は、「諏訪の宮」のご神体である豊玉姫命が、右龍と左龍の二頭の白龍に道を導かれて、あるいは龍を従えておいでになる、と解釈されています。湖畔にたたずむこの松は、東にある明神山の奥宮から豊玉姫命が白龍に導かれ、里宮へ来る道中に位置します。 誰が成形したわけでもないのに、この形を成しているのは不思議です。  →地図


白竜の松(右竜)  御神歌の一節『右龍がいにも左龍がいにも』は、「諏訪の宮」のご神体である豊玉姫命が、右龍と左龍の二頭の白龍に道を導かれて、あるいは龍を従えておいでになる、と解釈されています。湖畔にたたずむこの松は、東にある明神山の奥宮から豊玉姫命が白龍に導かれ、里宮へ来る道中に位置します。 誰が成形したわけでもないのに、この形を成しているのは不思議です。  →地図


山中湖のおすすめ散歩<自然満喫1>
散策しながら山中湖の歴史を辿る地元目線の散歩みちご紹介

【自然満喫コース1】

山中地区の北側コースで、鎮守の森、富士山の溶岩流の上に育った森を歩き、自然のすばらしさを感じながらめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:3Km 所要時間:1.5時間程
山中地区の北側コースで、鎮守の森、富士山の溶岩流の上に育った森を歩き、自然のすばらしさを感じながらめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:3Km 所要時間:1.5時間程
山中地区の北側コースで、鎮守の森、富士山の溶岩流の上に育った森を歩き、自然のすばらしさを感じながらめぐり歩くコースです。
・・・・・・>全行程:3Km 所要時間:1.5時間程
梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


鎮守の森と散策路  山中諏訪神社と商工会・保育園に囲まれた鎮守の森に散策路が整備されています。アジサイやもみじの植えられた多彩な植生を持つ森は神社参拝者や観光客・地域の子供達の遊び場・憩いの空間となっています。薄暮の頃にはムササビも巣から出てきて、木々の間を飛び回ります。 →地図


鎮守の森と散策路  山中諏訪神社と商工会・保育園に囲まれた鎮守の森に散策路が整備されています。アジサイやもみじの植えられた多彩な植生を持つ森は神社参拝者や観光客・地域の子供達の遊び場・憩いの空間となっています。薄暮の頃にはムササビも巣から出てきて、木々の間を飛び回ります。 →地図


鎮守の森と散策路  山中諏訪神社と商工会・保育園に囲まれた鎮守の森に散策路が整備されています。アジサイやもみじの植えられた多彩な植生を持つ森は神社参拝者や観光客・地域の子供達の遊び場・憩いの空間となっています。薄暮の頃にはムササビも巣から出てきて、木々の間を飛び回ります。 →地図


山中諏訪神社  9月に行われる安産祭りは、安産・子宝を願って女性も神輿を担ぐ珍しいお祭りです。諏訪明神と称されるこの神社は、正式には同地の浅間神社の摂社にあたります。9月4.5.6日に行われる「安産祭り」には多くの婦人の参詣で賑わいます。
永禄8年(1565年)、武田信玄は富士山中宮の社檀造営のため、黒駒(笛吹市)の関銭のうち十貫文を寄進したとされています。
諏訪神社参道を湖畔に抜けると湖の対岸に明神山が望めます。明神山山頂には山中諏訪神社奥宮の祠があり、9月の例祭前に奥宮祭が執行されています。 →地図


山中諏訪神社  9月に行われる安産祭りは、安産・子宝を願って女性も神輿を担ぐ珍しいお祭りです。諏訪明神と称されるこの神社は、正式には同地の浅間神社の摂社にあたります。9月4.5.6日に行われる「安産祭り」には多くの婦人の参詣で賑わいます。
永禄8年(1565年)、武田信玄は富士山中宮の社檀造営のため、黒駒(笛吹市)の関銭のうち十貫文を寄進したとされています。
諏訪神社参道を湖畔に抜けると湖の対岸に明神山が望めます。明神山山頂には山中諏訪神社奥宮の祠があり、9月の例祭前に奥宮祭が執行されています。 →地図


山中諏訪神社  9月に行われる安産祭りは、安産・子宝を願って女性も神輿を担ぐ珍しいお祭りです。諏訪明神と称されるこの神社は、正式には同地の浅間神社の摂社にあたります。9月4.5.6日に行われる「安産祭り」には多くの婦人の参詣で賑わいます。
永禄8年(1565年)、武田信玄は富士山中宮の社檀造営のため、黒駒(笛吹市)の関銭のうち十貫文を寄進したとされています。
諏訪神社参道を湖畔に抜けると湖の対岸に明神山が望めます。明神山山頂には山中諏訪神社奥宮の祠があり、9月の例祭前に奥宮祭が執行されています。 →地図


山中浅間神社  平安時代の承平元年(西暦931)、郷民社殿を造営し、三柱の神(木花開耶姫命[コノハナノサクヤヒメノミコト]、天津彦々火瓊々杵尊[アマツヒコヒコホノニニギノミコト]、大山子祇命)を勧請して奉ったことが、山中浅間神社の始まりで、村上天皇の勅命で建立されたと伝えられる由緒正しい神社です。
江戸時代には本殿、雨屋、拝殿を再建し、石灯籠の建立しましたが、大正8年(1920)の火災により全社殿を焼失。同12年に再建され、その翌年には手水舎神興殿が新築されています。
昭和47年(1972)には社殿(50坪)が鉄筋コンクリート屋根銅板葺の荘厳な建物に改められ、建物新築後には手水舎神興殿も再建され、現在に至っています。 →地図


山中浅間神社  平安時代の承平元年(西暦931)、郷民社殿を造営し、三柱の神(木花開耶姫命[コノハナノサクヤヒメノミコト]、天津彦々火瓊々杵尊[アマツヒコヒコホノニニギノミコト]、大山子祇命)を勧請して奉ったことが、山中浅間神社の始まりで、村上天皇の勅命で建立されたと伝えられる由緒正しい神社です。
江戸時代には本殿、雨屋、拝殿を再建し、石灯籠の建立しましたが、大正8年(1920)の火災により全社殿を焼失。同12年に再建され、その翌年には手水舎神興殿が新築されています。
昭和47年(1972)には社殿(50坪)が鉄筋コンクリート屋根銅板葺の荘厳な建物に改められ、建物新築後には手水舎神興殿も再建され、現在に至っています。 →地図


山中浅間神社  平安時代の承平元年(西暦931)、郷民社殿を造営し、三柱の神(木花開耶姫命[コノハナノサクヤヒメノミコト]、天津彦々火瓊々杵尊[アマツヒコヒコホノニニギノミコト]、大山子祇命)を勧請して奉ったことが、山中浅間神社の始まりで、村上天皇の勅命で建立されたと伝えられる由緒正しい神社です。
江戸時代には本殿、雨屋、拝殿を再建し、石灯籠の建立しましたが、大正8年(1920)の火災により全社殿を焼失。同12年に再建され、その翌年には手水舎神興殿が新築されています。
昭和47年(1972)には社殿(50坪)が鉄筋コンクリート屋根銅板葺の荘厳な建物に改められ、建物新築後には手水舎神興殿も再建され、現在に至っています。 →地図


いこいの森・さんぽみち  紅富士の湯に接する入会組合敷地内にあり、平安時代頃の富士山噴火の溶岩流「鷹丸尾溶岩流」の上に育った森では、様々な高原山野草が見られます。 →地図


いこいの森・さんぽみち  紅富士の湯に接する入会組合敷地内にあり、平安時代頃の富士山噴火の溶岩流「鷹丸尾溶岩流」の上に育った森では、様々な高原山野草が見られます。 →地図


いこいの森・さんぽみち  紅富士の湯に接する入会組合敷地内にあり、平安時代頃の富士山噴火の溶岩流「鷹丸尾溶岩流」の上に育った森では、様々な高原山野草が見られます。 →地図


大露頭  露頭とは、岩石や地層が露出している場所のことです。 山中の大露頭は富士山が噴火して流れ出した大規模な溶岩流「鷹丸尾溶岩」の先端で、すぐ先には山中部落の墓地があり、人々の力で溶岩流をこの場所で止めた言われています。 →地図


大露頭  露頭とは、岩石や地層が露出している場所のことです。 山中の大露頭は富士山が噴火して流れ出した大規模な溶岩流「鷹丸尾溶岩」の先端で、すぐ先には山中部落の墓地があり、人々の力で溶岩流をこの場所で止めた言われています。 →地図


大露頭  露頭とは、岩石や地層が露出している場所のことです。 山中の大露頭は富士山が噴火して流れ出した大規模な溶岩流「鷹丸尾溶岩」の先端で、すぐ先には山中部落の墓地があり、人々の力で溶岩流をこの場所で止めた言われています。 →地図


山中湖のおすすめ散歩<自然満喫2>
散策しながら山中湖の歴史を辿る地元目線の散歩みちご紹介

【自然満喫コース2】

山中地区の北側の桂川沿いを花の都まで歩くお手軽コースで、7月の夕暮れ頃にはヘイケボタルが飛んでいるかも?
・・・・・・>全行程:2.5Km 所要時間:1時間程
山中地区の北側の桂川沿いを花の都まで歩くお手軽コースで、7月の夕暮れ頃にはヘイケボタルが飛んでいるかも?
・・・・・・>全行程:2.5Km 所要時間:1時間程
山中地区の北側の桂川沿いを花の都まで歩くお手軽コースで、7月の夕暮れ頃にはヘイケボタルが飛んでいるかも?
・・・・・・>全行程:2.5Km 所要時間:1時間程
梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


梁尻通り  「梁尻通り」は長池方面から吉田・忍野に抜ける昔から利用されていた古道で、昭和5年の地図にも湖畔の河口を迂回した道が顕されています。幅3m弱の道沿いにはブナや榛の木の巨木が茂り、朽ちた幹にはキツツキの巣穴が多く見られます。この地域は昭和初期より政財界人の別荘地として開発されてきた歴史があり、藁葺き屋根や大きな暖炉の煙突を持った家屋の造りからも当時の面影が偲ばれます。カラマツや楢・栗の木も多く、この先の「栗木林」の小字名もうかがえます。 →地図


桂川の水車小屋跡からサイクリングロード  桂川沿いには欅や榛の木の巨木が茂り、桧並木が花の都公園への心地よいトレイルとなっています ここには昔、水車小屋が2棟あったことが過去の地図や残された石材からうかがえます。 →地図


桂川の水車小屋跡からサイクリングロード  桂川沿いには欅や榛の木の巨木が茂り、桧並木が花の都公園への心地よいトレイルとなっています ここには昔、水車小屋が2棟あったことが過去の地図や残された石材からうかがえます。 →地図


桂川の水車小屋跡からサイクリングロード  桂川沿いには欅や榛の木の巨木が茂り、桧並木が花の都公園への心地よいトレイルとなっています ここには昔、水車小屋が2棟あったことが過去の地図や残された石材からうかがえます。 →地図